ベルセルク43巻を読んで思うことはそこなのかと突っ込まれそうな感想。

ベルセルク くりパック 漫画らぼ

ベルセルク43巻を読み終えた。

三浦健太郎先生が亡くなってすぐのベルセルクの絵は、とても頑張っていたと思う。
あれほどの絵をご本人不在でここまで描けるものかと感動すら覚えていた。
さすが長期に渡って三浦先生のアシスタントをしていた方々だと。

ところが今回の43巻
…違和感がすごい。

顔がね、なんか違うのだ。
顔が、体形が。

最初は一生懸命近づけるように努力していたのだろうけれど
回を重ねるごとにやはり手癖が出てしまうのだろう。

まあ、これは仕方がないと言える。

長期間連載されている漫画で作者が同じ人であるにも関わらず
最初と絵が全く別の物に変わってしまった例は少なくない。
そう考えれば仕方ないと納得することもできる。

何より、本来なら見る事が出来ない最終回を見せてもらえるというのだ
森恒二先生と、アシスタントの皆様には感謝しかない。

それはそれとして気になることが一つある。
それはくりパックの事だ。

新体制になってから一度も現れていない。
これは描けないのか、描かないのかどっちなのだろう?

デフォルメと言うのは意外と難しいもので
少しのバランスで全くの別物になってしまう。
三浦くりパックを描けないから出てこないのだろうか?

若しくは、バッシングを恐れたのかもしれないという考え方もある。

三浦先生が描いたものではないベルセルク。
賛否両論もあるだろう。
そんな中でくりパックの使い方を間違えると炎上しかねないと思うのは私だけだろうか?

三浦先生ならシリアスな場面でくりパックを使っても問題はない。
作者本人が何を描こうが読者は納得する。

だが、意志を継いだとは言え、別の人達が描いたとなると話は変わってくる。
ベルセルクを好きな人達はその中に三浦先生を見ている。
現在のベルセルク継続も「続きを読めるなら」と少しの違和感を抑え込んで
読んでいる人たちもいる。

そんな中、くりパックを描いたらどうなるのだろうか?

違和感なく受け入れられる可能性はもちろんあるが
受け入れられない人達も一定数いると思われる。
特に現在の重い展開の中
ギャグバージョンであるくりパックは「ふざけている」と取られる可能性もある。

「三浦先生ならこんな所でくりパックは出さない」
「三浦先生のくりパックはこんな事しない」
「三浦先生のくりパックと違う」

こんな感想が出てくる可能性は大である。

意志を継いだ人達とは言え、重い展開である現状で
くりパックを入れるのは怖いと思う。
森先生でも流石にくりパックの事までは伝えられていないだろう。

シリアスにギャグを挟み込むのは本当に難しい。
その人のセンスを問われると言っても過言ではない。

もちろん、全面的に受け入れられるかもしれない。
けれど、三浦先生の残した物語を最後まで描き進めていくために
炎上の不安があるものは描かない事にしたのかもしれない。

三浦先生のベルセルクを愛するが故描けないのではないか…と
そう思ってしまうのは私だけなのだろうか?

もう少し話が進んで、少しのギャグも許される展開になってきたときに
くりパックが復活…なんて事も有るかもしれない。

ちょっとだけ期待して待っていたいと思う。

ところで私、この記事に何回「くりパック」って書いた?(笑)

ベルセルク くりパック

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